フランシスコ・ヴァスケス・デ・コロナド
栄光と神と黄金を求めて
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コロナドは1510年にスペインで生れた。ヨーロッパ人として初めて北米の南西部を探検した彼はその後のスペインにとって大きな開拓の道を開くきっかけとなり、また、アリゾナの存在がヨーロッパに知られる第一歩を作った。
舞台はニュースペイン、今のメキシコ。1536年に4人のスペイン人が裸同然の姿でふらふらと歩いていた。痩せこけて飢え死にしそうなところだったが、誰かに救出され、当局が調査に当たった。その内のひとりが、「自分は見たことがないのだが、、、」と担当官に耳打ちしたのが、そもそもの切っ掛けだった。彼の話は「メキシコの北には7つの黄金の町があるらしい」と始まった。そして、その場所は恐ろしいほど暑いが、乾燥していて心地よいと言う。ニュースペインの統治官、メンドザはこの話を聞き、胸が踊るのを押さえきれなかった。しかし、この話が外に漏れるととんでもない騒ぎになると恐れ、口外を禁じ、密かに探検隊を組織した。
この探検隊に雇われたのがフランシスコ・ヴァスケス・デ・コロナドだった。コロナドは、まずフランシスコ教会の牧師であったフレイ・マルコス・デ・ニザとエストバンに命じ、そのような黄金の町の有無を確認させようとした。
1539年、デ・ニザは、北に向かい、アリゾナの東部からニューメキシコの西部に入った。デ・ニザはエストバンにさらに進むように命じ、自分はキャンプを張った。数週間後、エストバンは、ニューメキシコのズニ族の村に入った。ところが、その村でこともあろうに牧師たる者が村人に食料と女を要求したのだ。怒った村人は弓矢で彼の体をぶち倒した。這々の体でデ・ニザのキャンプに逃げ戻ったエストバンは、デ・ニザとメキシコシティーに戻って来た。
ところが、メキシコに帰って来た二人の牧師の話は、まったくのでっち上げ。つまり、「北にはメキシコシティーより大きな町があり、10階建てのビルが並び、人々は大きなパールを身に着け、金とエメラルドのアクセサリーで身を飾り、食器は金と銀でできていて、家の戸は、トルコ石で造られている、、、」などという報告だった。このデ・ニザの話でメキシコシティーの市民は皆、金塊の夢を見、そのうわさで町はもちきりとなったのだ。
1540年、コロナドは、300人のスペイン軍兵士と1,000人もの現地人の奴隷を従えて、メキシコを北上。現在のアリゾナ、ニューメキシコ、テキサス、オクラホマ、カンザス州を探検した。もちろん、あのデ・ニザが案内役となった。そして、彼の一団は赤と黄の鮮やかな旗を掲げていたのだ。
ところが、目的とするニューメキシコのプエブロの村にたどり着くまで、5ヶ月も要し、その間に兵士は疲れと空腹で倒れ、ようやく見つけたアメリカ・インディアンの村に着くや否や、食料をあさって村人の反感を買った。その結果、1540年7月7日にはアメリカ・インディアンとスペイン人との初の戦争が起こってしまった。
捕虜となったアメリカ・インディアン達は、スペイン人が金の町を探しており、この村に長居する意志がないことがわかると、スペイン人に「黄金の町はもっと北にある」と伝えた。これを信じて、スペイン人は、さらに北上していく。
コロナドの一隊は一部分かれて西に向かいグランド・キャニオンにたどり着くことになる。「ただの大きな穴」があったという記述が残っている。黄金を求める彼等にはグランド・キャニオンはただの穴でしかなかった。
結局、金はもちろん、銀やその他の宝石類などを全く見つける事ができないまま、1542年にメキシコに戻った。失意のコロナドは、1554年にこの世を去るが、それより半世紀後に始まった大きな探検の道を彼が開いたとは夢にも思っていなかったに違いない。
ちなみに、ほぼ同時期に日本にポルトガル人を乗せた中国船が種子島に流れ着き、初めて日本に鉄砲が伝えられたり(1543年)、フランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝える為に来日したり(1549年)で、コロナドとアリゾナの出会いはヨーロッパと日本の出会いと同時進行していた。
アリゾナの州印章
中央に あるモットーで"Ditat Deus"と書いてあるのは、「神が豊かにする」の意。
絵の左側には鉱山で働く人が立ち、シャベルとつるはしがある。これは、アリゾナの鉱業を意味する。
山の背後から太陽が登っている。これは、もちろんアリゾナに燦々と注ぐ太陽を表す。
中央から右側は、ダムと貯水池が描かれており、その下に綿と柑橘類の畑がある。畑の前には牛がいる。これは、アリゾナの農業、遊牧業を表している。
この絵は、アリゾナを代表する5つのCを指している。すなわち、Copper(銅)、Cotton(綿)、Citrus(柑橘類)、Cattle(牧畜)、Climate(気候)の5つのCで始まる単語だ。
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