2001年 10月号 特集

歴史の町、ツーソン


ツーソンは、アリゾナ州第二の都市。
人口48万。州内で最も古い州立大学、アリゾナ大学を中心に教育と文化の町として発展してきた。 今月から数回にわたってこのツーソンを歩いてみよう。

ツーソンのAマウンテン
ツーソンは、アリゾナ州第二の都市。人口48万。州内で最も古い州立大学、アリゾナ大学を中心に教育と文化の町として発展してきた。
今月から数回にわたってこのツーソンを歩いてみよう。

ツーソン郊外のソノラ砂漠博物館前に立つ標識。「コヨーテに食べ物を与えないで」との意
ツーソンは、アリゾナの南部に位置し、メキシコ国境に近い。この地理的環境がツーソンのユニークな文化環境を作り上げている。

ツーソンの地理
ツーソン市の周辺は標高の高い山岳地帯が多く、起伏に豊んでいる。また、サンタ・クルーズと呼ばれる川は、古代インディアンの時代からツーソンの重要な水源としての役を果たしてきた。この川は、ツーソン南方のツマカコリ山脈から流れ、アリゾナ中部を流れるヒラ・リバーに合流してきた。
ツーソン周辺の山脈は、7千万年前の火山活動で地上が隆起して作られた


代のツーソン周辺 
 アリゾナ南部、シエラビスタ付近の山々;ホァチューカ山脈。ここで牧畜をしていたエド・リーナーが牧場で妙な骨を見つけた。時は1955年。彼は早速、アリゾナ大学の考古学者、エミル・ホーリーに電話する。この「妙な」骨は、リーナーの家の後ろに流れる小川から突き出ているように見え、異常に大きい骨だった。
 考古学者の調査は、思いもかけない過去を明らかにした。この骨は最後の氷河時代のマンモスの骨。しかし、それだけではない。そのマンモスの骨がきちんと切断され、矢のように先が尖っていた。つまり、この時代にすでにツーソン近辺には人々が住み、マンモスなどを殺して食べていた、という事実だった。まさに11,000年前の古代人の活動が明白になったのだ。
 遠い昔、アジアからベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸に移ってきた人達は、ツーソン周辺に少なくとも11,000年前に移住し、石器を使って狩猟生活を送っていた。
 この当時のツーソンは、今よりはるかに気温が低く湿度が高かった。ツーソンの東に位置するサン・ペドロ・バリーには細長く浅い湖があった。ツーソン盆地は、ジュニパーや松の木々が生い茂り、周辺の草木や湖岸にはマンモス、マストドン、馬、ラクダ、野牛などが集まっていた。
 この時期に古代人は、骨を削って先を鋭くしたものを狩猟の武器として使っていた。リーナーが自分の牧場で見つけたのは、こうした武器の数々だったのだ。彼等の狩猟は、時に過度なほど殺陸をし、9,000〜10,000年前までには多くの動物が絶滅せざるを得ないほどであった。
 その後、地球の気候に大きな変化が現われる。ツーソン周辺も気温が上がり、乾燥地帯が広がり始める。一方、メキシコの中央部と南部は気候の変化による影響がはるかに少なく、古代人は、メキシコで独特な高い文化を築き始めた。

メキシコの古代文明の影響
メキシコの古代文明の影響
 メキシコの古代人は、紀元前数千年ころに農業を始める。農業技術が数千年を経て少しづつ発達し、トウモロコシの生産に成功するころから陶器を作ることを覚えた。農業と陶器は、人々の生活に劇的な変化を与え、比較的急速にその手法が他の地域に広がり始める。そして、現在の米南西部の砂漠地帯にも知られるようになった。しかし、ツーソン盆地での古代人達は相変わらず、狩猟と野性のトウモロコシを採って生活をしていたと思われている。
ホホカム族の移住
 紀元1世紀ころに大きな変化が現われた。新たな古代インディアン、ホホカム族がツーソン一帯に移住してきたのだ。彼等はどこから来たのだろうか。メキシコから北上して来たという説があったが、メキシコのソノラ州にはホホカムに似た文化を形成した遺跡が残っていない。他の学説によれば、ホホカムは、かなり遠方からしかも短時間でこの一帯に移住してきた人達のようだ。


ホホカムの生活
 ホホカム族は、それ以前の古代人と全く異なった生活形態をアリゾナ中央/南部一帯に持ち込んだ。まず村を形成。村では泥を使って竪穴住居を作った。泥の住居の中は、夏が涼しく、冬が暖かい。又、最も顕著なホホカムの特徴は、灌漑施設だ。乾燥した砂漠地帯で農業を営むには、水の確保が最重要だ。彼等は、用水路を作り、主要な川から延々と砂漠に水を運んだ。フェニックス周辺はソルトリバー。その南はヒラリバー。ツーソンは、サンタ・クルーズが流れていた。
 ツーソン近辺のホホカムは、ツーソン山脈からサン・ザビエルのミッションがある辺りに村を。その他、リヒト川に沿ってタンケ・バーデ、パンタノ・ワッシュの周辺、そして現在のダウンタウンの辺りに定住した。
 西暦1,000年ころには、北はフラッグスタッフ、南は現在のメキシコ国境まで広範囲にわたってホホカムの村々が点在していた。
 ホホカムの特徴は彼等が残した陶器にも現われている。黄褐色に赤の模様が入った容器、鳥や動物の形を陶器にしたものなど、彼等の芸術作品は現代人の目を魅了するものばかりだ。中には貝殻を使った作品もあり、カリフォルニアの海岸付近に住む先住民と交易をしていたこともわかっている。
 その他、球技場もホホカム文化の特徴だ。球技場の両端にゴールを設置し、ゴムで作ったボールを2つのチームが打ち合ってゴールに入れるのを競った。球技場は泥で作った壁で囲い、屋根はなく、グラウンドは固く平たに作られている。

ホホカム文化の変化
 こうしたユニークな文化を築き上げたホホカムも、13世紀当たりから大きな変化を見せ始める。多くの大規模な村々から住民が去り、新たな文化が他の地域から流れ込み、ホホカムの独自性が消滅していく。とりわけ、ツーソン近辺では、アリゾナ東部やニューメキシコ西部の陶器が一般に普及し始めた。
 村や住居の形態にも変化が及ぶ。これまでの簡単な竪穴住居からアドービ調のしっかりした壁で多くの部屋が中庭を囲むような高度な技術を要する建物を作るようになる。この顕著な例がツーソンとフェニックスの中間に位置するクーリッジで見つかった「カサ・グランデ」だ。
 また、死人の埋葬方法にも変化が現われた。それまで何百年の間、ホホカムは死人を火葬し、灰と骨を陶器の中に入れて埋葬していた。ところが、カサ・グランデが作られた頃から、土葬が一般的となり、火葬は極めて少なくなったことがわかっている。遺体と共に陶器や宝石類を埋葬する方式は、東洋によく見られる方式と似ている。
 こうした変化を経て、西暦1450年までにはホホカム族が完全に姿を消してしまった。この原因はいまだにミステリーのままだ。
 もうひとつのミステリーがある。
 ツーソン市の西端、Aマウンテンの頂上の裏側から長く曲線を描いたように何千もの石が塹壕のように並んでいる。実際、この石を発見したスペイン人はこれを「ランチェリアス(塹壕の意』」と呼んだ。この「ランチェリアス」は、何の目的で作られたのか、明白な学説は出ていない。農業の目的かもしれないし、防衛の目的だったかも知れないのだ。いずれにしても、この「ランチェリアス」が作られた時期は、ホホカムがその歴史にピリオドを打つ直前であったようだ。


ペインからの訪問者
 ホホカムが去ったツーソンは、次にスペイン人の訪問に会う。初めてこの地に足を踏み入れたヨーロッパ人は、イエスズ会の修道僧キノだった。時は1692年9月27日。彼は、ツマモク・ヒルの麓にあったピマ・インディアンの村に着いたようだ。ちなみに、日本ではこのころ江戸時代の中期で元禄文化の栄えていた。
 ツーソンの名前が初めて西洋の地図に現われたのは、1695年。キノの訪問の賜だろう。
 1694年に修道士パドレ・アウグスチヌス・デ・カンポスがインディアンの集落をツーソンで発見。この地を「セント・アウグスチヌス・デル・オイダク」と命名。その意は、聖アウグスチヌスの地」。その当時スペイン人がピマ・インディアンから聞いた地名がツーソンだった。言語学的に学説が違うが、「黒い丘の麓」、あるいは「黒い泉」という意味らしい。従って後ほどツーソンは、「サン・アグスチン・デル・ツーソン」と呼ばれた。

フランシスコ・キノ
 キノが残した業績は大きい。彼以前にアリゾナ/ニューメキシコに入ってきた修道士達は、ピマ・インディアンの反抗に遭い、その布教活動は困難を極めた。修道士の多くは原住民を強制的に改宗させようとしたり、奴隷のように扱い、厳しい反感を買った。しかし、キノはインディアンの中に溶け込み、信頼と尊敬を勝ち取ったのだ。彼は、アメリカ・インディアンがキリスト教を必ず受け入れてくれると、固く信じていた。そして、精力的に馬で旅をしながら、彼等の生活の中に入っていった。
 1692年にはインディアンのキリスト教への改宗は、ツーソンの西のサン・ペドロやサンタ・クルーズ・バリーにまで達成した。1700年までには、ミッションと呼ばれる宗教共同体がパパゴ・インディアンの村に作られるまでになった。ここには、100年ほど後にサン・ザビエル・デル・バックが建設された。キノは更に、1701年に現在のノガレスにグエバニ・ミッションを建設。キノの夢は、ミッションをサン・ペドロ川、ヒラ川、コロラド川に沿って建設していくことだった。しかし、肝心のスペインがヨーロッパでの覇権争いに忙しく、キノは財静的な援助を受けることができず、彼の夢は達成されなかった。
 1711年、彼は息を引き取る。臨終の彼の床には、2枚の牛革がマットレス、インディアンの毛布、そして、彼が使った古びた鞍が枕になっていた。遺体はノガレスの南数マイルの教会に埋葬された。

スペインの北米植民地戦略
スペインは、現在のメキシコをニュースペインと称して植民地にし、さらに北上を狙った。彼等の戦略はいくつかの分野に分けられる。
1. レアル・デ・ミナス(鉱山)
2. プレシディオ(フロンティア駐屯地)
3. ハシエンダ(牧場/農園)
4. ミッション
 レアル・デ・ミナスは、植民活動を支える金銀の採掘事業をする場所。プレシディオは、軍隊を駐屯させる場所。ハシエンダは、食料を産出供給する場所。そして、ミッション。ミッションは、インディアンをキリスト教に改宗させて、一定の地に定住させ、修道士の指導のもとに農業、牧畜業、手工業を営ませる。ミッションは、宗教組織であり、経済組織であり、軍事的意義も持つ村組織であった。
 もともとスペイン人の描いた理想的なミッションは、平和なインディアンが農業や牧畜業に励み、自給自足できるまでに成長すると、修道士は更に北上して次のミッシュンを作るために旅立つ、というものだった。ところが、外のインディアン、とりわけアパッチ族から見ると、ミッションは最も攻撃しやすく富を略奪できる格好の場所だ。アパッチ族のスペイン人への憎悪は抜け難いものだった。しかも、平和であるはずのミッション内のピマ・インディアンも反抗して反乱を起こすことが頻繁になった。


ピマの反乱
サン・ザビエル・デル・バック
 キノの死後、スペイン人と原住民の間に再び亀裂が生じ始める。スペインは、イエスズ会の修道士を次々と送り込んだ。しかし、その努力、人格、エネルギーはキノの比ではなかった。原住民の中には、修道士の食物に毒を入れる者も出たりした。
 1736年、銀が発見される。当然、大量のスペイン人が押し寄せてきた。急速な人口増加は、ピマ・インディアンの怒りを買う。
 ルイスと呼ばれるピマの指導者がいた。彼は、かつてピマ族の反乱を抑えてスペインを助けた。その報奨としてスペインからピマの指導的立場に任命された。ところが、ルイスの力が伸びるにつれて、彼は画策してスペインを追い出そうとする。
 1751年11月20日。ルイスは、アパッチ族の攻撃から守ると装って、20人のスペイン人を自宅に招いた。そして、彼は家を放火。20人のスペイン人は、焼死するか、逃げる際に暴行されて死亡。
 この反乱行為が他のピマ・インディアン達に伝わると、彼等も反乱に加わり、数日で100人ものスペイン人が殺されてしまった。早速、スペイン軍がルイスを始めとする反乱インディアンに攻撃をかけ、インディアン達は、サンタ・カタリナ山脈で敗北する。
 この結果、スペインは、翌年ツバックにプレシディオを建設する。

ツーソンの正式な出発
 1767年、スペインはフランシスコ会の修道士、ガルセスをサン・ザビエル・デル・バックに派遣した。ガルセスは、キノと同様に精力的にインディアンの中に入り込み、1年でピマ語をマスターしてしまう。
 1772年にスペインは、サンアントニオにいた軍人オコノーをアリゾナに呼び、プレシディオとして最適な地を見つけるよう命令する。オコノーは、ガルセスを訪問し、作戦を練る。
 1775年、ガルセスとオコノーは、馬でツーソンに向かう。その当時のツーソンはすでに小さな共同体ができていた。サンタ・クルーズ川に沿って農作物が見える。土地は豊かだ。水も十分有る。放牧地もある。木もある。防衛に有利な空間もある。彼等はサンタ・クルーズ川の東岸にたどり着いた。馬から降り、早速プレシディオの防壁はどこに、倉庫はどこに、馬はどこに、等、将来の要塞建設のプランを頭に浮かべた。
 その夜、オコノーは、命令書を書く。
「フランシスコ・ガルセス牧師、ホアン・デ・カルモナ大尉の同席のもと、サン・アグスチン・デル・ツーソンを新たなプレシディオの地として選択し決定するものとする。当地は、ツバックから18リーグの距離にあり、水、放牧地、木などの条件を備え、アパッチ族のフロンティアに効果的な近距離にある。新プレシディオの指定は、私、フランシスコ・ガルセス牧師、ホアン・デ・カルモナ大尉の署名によって公式のものとする。サン・ザビエル・デル・バックにて。1775年8月20日」
 これがツーソンの正式な出発の日となったのだ。


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