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20002年 10月号 特集
考古学者によると、4000〜5000年前にグランドキャニオンに古代人が生活をしていたことがわかっている。1932年に木の枝で作った動物をかたどった呪物がレッドウォール石灰岩の崖で発見された。放射線炭素の年代測定をすると、少なくとも4000年前のものということがわかった。 紀元500年ころ、アナサジ・インディアンがこの地に入り込み、鹿、ウサギなどの狩猟をしていた。また、かごを作る技術を持ち、考古学的には、彼等はバスケットメーカーと呼ばれる。グランド.キャニオンの公園内には、バスケットメーカーの住居跡が約2000箇所見つかっている。その中の代表的なものが、ツサヤン遺跡だ。西暦1185年に作られたもので、30人ほどのアナサジ族が住んでいたようだ。 このアナサジ族が1200年ころ突然姿を消す。そして、1300年ころから、ハバスパイ族がコロラド川をつたって、カリフォルニア州境からグランド・キャニオン何西部に移住。現在もハバス・キャニオンに定着している。 1400年ころナバホ族がアリゾナ北東部からグランド・キャニオンの東に移住し始め、現在も居留区を作っている。
1540年にメキシコ総督は、フランシスコ・バスケス・デ・コロナドを派遣し、黄金の都市を見つけるよう命令した。コロナドは、現在のアリゾナ・ニューメキシコ州境までたどり着いたが、目的のパラダイスを発見できず、落胆した。 そこで、コロナドは、彼の部下に命じ、その近辺をさらに探検させた。その部下のひとり、ガルシア・ロペス・デ・カルデナスは、ホピ・インディアンのガイドを使って、インディアンの間で語り伝えらているニューメキシコより北東にある「大きな川」を目指した。 そして20日後に、「低く曲がった松の木が繁り、大変寒く、北に大きく口を開けた場所」を見つけたと記述している。歴史家は、これがグランド・キャニオンのサウス・リムだろうと結論づけている。 しかし、黄金を探している彼等にとって、グランド・キャニオンは、何の魅力もない「大きな穴」にしか過ぎなかったようだ。
次のアングロの到着は、1857年。今度は米軍の調査団だ。ジョセフ・アイブに率いられた調査団は、コロラド川を蒸気船で上った。しかし、現在のレーク・ミードまで来ると、コロラド川の水面が低すぎて船の運行が不可能となって、船を捨て、歩いて上り続けてグランド・キャニオンに。彼等は、グランド・キャニオンの底にたどり着いた最初のアメリカ人となった。アイブは、その美しさに魅了され、「巨大な美」と表現したが、一方、現実的な彼は、「この一帯は、価値がなく、利益をもたらさない場所」と断定する。そして、「我等が最初の訪問者で、しかも最後の訪問者となるだろう。」とまで予言をしたのだ。 もちろん、彼の予言は的外れだった。
パウエルは、1834年に生まれ、中西部のフロンティアで育つ。大学卒の学位は持たないが、独学の勤勉家だった。南北戦争では、北軍に入り、シャイローの戦い(1862年)で右腕を失う。
そして、1869年5月。パウエルとパウエルが雇った9人の探検家達が、ワイオミング州のグリーンリバーからコロラド川を目指した。グリーンリバーは、ユニオン・パシフィック鉄道が通っていたため、出発に最も適した場所と判断された。パウエル自身が設計した4隻のボートで意気軒昂に出発した彼等が、最初に遭遇しなければならなかったものは、想像以上に激しい急流だった。出発して2週間後、ボートの1台が破損。負傷者は出なかったものの、彼等の一人が「危険過ぎる」と言って、この冒険から脱落。8月4日に現在のリーズ・フェリーに到着。同月10日にマーブル・キャニオン、そしてリトル・コロラド・リバーの河口にたどり着く。 このころまでに探検隊は、腕効きの川下りの名手になっていた。しかし、誰一人としてロマンチックな旅の思いを持っている者はいなかった。四六時中、頭のてっぺんから爪先までずぶ濡れ。空からは夏の厳しい太陽光線が容赦なく照りつける。夜はキャニオンを吹き抜ける強風が砂塵を巻き込んで彼等を襲い、風がなければ蚊の猛襲を受けて眠れたものではなかった。衣類や靴もボロボロとなり、疲労し切った肉体は、かろうじて精神力だけで支えられていたようだ。 このような限界状況で迎えた8月27日。彼等の眼前には、川の中に巨大な石が、まるで誰かが川岸から投げ捨てたように横たわっていた。この岩にぶち当たる水は、大波を作り、そのまま、この世のものとは思えないほどの急流で下方に流れ去っていく。これは絶対絶命。このような最悪の事態に、3人の隊員が探検を放棄する。彼等は、これ以上の探検は自殺行為だとして、歩いて北方のユタ州を目指した。
後に彼等が知ったことだが、8月27日に探検を断念した3人は、途中で地元のインディアンに殺されてしまった。正に、断念したことが自殺行為だったのだ。 探検を成功させた6人の内、パウエルとその弟はすぐにコロラド川を去る。残った4人はその後も川を下り続け、内2名がユタまで、あとの2名は、何とそのままメキシコ湾までたどり着いてしまう。 この成功でパウエルは、地理/地質学の専門家として動かし難い地位に着く。1871年には再びワイオミング州グリーン・リバーに入り、2度目のコロラド川探検を。そして、パウエルの下には、科学者やプロの写真家達が探検隊の一員となる。こうして、グランド・キャニオンの全貌が次第に明らかになっていくのだ。
1905年に米国森林局が誕生。1907年にはグランド・キャニオンは、国立森林に指定。1908年にルーズベルト大統領は、グランド・キャニオンの中央部を国定記念物とすることを宣言した。 その後、紆余曲折を経ながら、1919年2月26日ウィルソン大統領は、法案にサインをして、グランド・キャニオンが全米17番目の国立公園に指定されたのだ。
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