1999年 9月号 特集

キャニオン・デ・シェイの不思議


アメリカ・インディアン、ナバホ族にとっては、聖なる地。そして、先祖代々から彼等が生きてきた生活の地だ。チンリ・ワッシュと呼ばれる川が作り上げたキャニオン(渓谷)に切り立つスパイダロックと呼ばれる岩の塔。大自然の超傑作としか言いようがないが、先住民の人々はそこに偉大なる神聖の力を感じてきた。

上:地上約250m。不思議な石塔、スパイダーロック。

チンリ(Chnle)から64号を上がると、キャニオン・デ・シェー国定記念公園。ここは、北がキャニオン・デル・ムエルト、南がキャニオン・デ・シェイと2つのキャニオンから成っている。
ビジター・センターでガイドブックが入手できる。サウス・リムからキャニオン・デ・シェイが見え、ノース・リムからキャニオン・デル・ムエルトが見える。車で回るのにそれぞれ2時間をみれば十分。ホワイト・ハウス遺跡 (White House Ruin)まで歩いて見学コースがある。もちろん川も歩いて渡るので濡れることが覚悟の上。往復で2時間から2時間半かかる。ナバホ・インディアンのガイド付きツアーも用意されている。
見学には、足元に要注意。しっかりした柵などが張り巡らされているわけではないので、下に転落する危険性が高い。

アリゾナは、全体が地質学的にも考古学上的にも多くの貴重な資料が残されている歴史の宝庫だ。
ユニークなキャニオンの生成 古代アメリカ先住民の遺跡の宝庫
アリゾナの北部とニューメキシコとの州境は、白亜紀(1億3500万年〜7000万年前)の末期に地殻変動が起き、幅50マイル、長さ100マイルの岩が盛り上がり始め、西側は緩やかな傾斜で東側は急傾斜を作った。そして現在のキャニオン・デ・シェイのすぐ北側のチャスカ山脈から緩やかな西側の傾斜をつたって川が流れ始める。この川が大地を少しづつ削り続け、両岸を垂直の壁のような格好にする。これが現在のこのキャニオンの形だ。しかも、今でも、この川は少しづつ大地を削り続けているのだ。
 また、岸壁の表面がニスを塗ったようにテカテカしている。まるで雨が降った直後のような表面だが、これも、何千年という長い期間を費やして自然が作った芸術作品なのだ。まず、雨水が岸壁に当たり、岩の中の金属成分が酸化する。この酸化物がまた雨水で岩の表面に押し出される。その溶液が岩の表面で固まる。こうした現象は「砂漠のニス」と呼ばれる。青や黒の色をした表面は、マンガンの酸化で、赤色は鉄分の酸化によるものだ。
 そして、この表面には風で吹き上げられた砂が間断なくぶつかり、その砂の接触によって、さらに表面が磨かれていく。こうして磨かれた岸壁の表面は、太陽光線を反射したり吸収したりして、見事な芸術美を見せてくれるのだ。
キャニオン・デ・シェイには、古代先住民の遺跡が各所に見られる。現在は、ナバホ族が生活をしているが、紀元前からアナサジと呼ばれる先住民がここに定住していた。もともと彼等の先祖は1万2千年程前、氷河期にベーリング海峡を渡ってアジアから移住してきた、というのが定説だ。その内、アナサジ族は北米の南西部に定住した。アナサジとは、ナバホ語で「古代人」という意味。彼等の生活は遺跡の発掘によって推測されているのみだが、スペイン人が入り込んできた時に、多くの遺跡が破壊されてしまった。このアナサジ族が1300年頃、突然この地から姿を消す。明確ではないが、大早魃が原因だったのではないかと思われている。

上:ホワイト・ハウス遺跡

ナバホ族とは
ナバホ (Navajo)は、民族学的、言語学的にアタパスカ(Athpaskan) 種族に属するとされている。アタパスカ族は、カナダ北西部およびアラスカの内陸地方、米国オレゴンからカリフォルニアの沿岸地方、アリゾナ、ニューメキシコに住む先住民を総称したもの。ナバホ、チリカワ、アパッチ、サン・カルロスなどがこれに属する。ナバホ・ネーションに入るとナバホ語のラジオ放送が聞こえてくるので、私達には興味深い。
 ナバホは、チェロキー族に続く北米2番目の人口を抱える大種族だ。もちろん、アリゾナ州では最大級のアメリカ・インディアン。

ナバホの歴史
1500年代にスペイン人がアリゾナ、ニューメキシコに足を踏み入れる。その頃の記録によると、ナバホは、ニューメキシコ北部の山岳地帯に定住していた。同時にニューメキシコのリオ・グランデの川沿いにアナサジ族の子孫が生活していた。スペイン人は、アナサジをプエブロ(村の意)と呼ぶ。ナバホは、このプエブロから家族制度、宗教、農業などを学んでいる。
 ナバホは自分達を「ディネ (Dineh)」と呼ぶ。ディネとは「人々」の意。当初スペイン人は彼等をアパッチ・デ・ナバホと呼んで他のアパッチ族と区別しようとした。その意は、「開拓地の他国人」。実際、他国人はスペイン人だったのだが。
 1600年代からスペイン人は、プエブロやナバホにキリスト教への改宗を強要し、植民地化を進める。当然、スペイン人への敵意が強くなる。1680年、プエブロはスペイン人に向かって反乱を起こす。この反乱は最終的には鎮圧され、多くのプエブロ・インディアンがナバホ族の中に逃げる。この時にプエブロが持ってきた羊や織物の知識でナバホは利を得る。こうして力を付け人口も増えたナバホは、居住の地を広げようとする。当時ヨーロッパからスペイン人が持ってきた馬が大きな戦力となる。すると、他のウテやコマンチ族が脅威を感じ、スペイン人と手を組んで、ナバホに対して戦いを挑む。
 当時ナバホは、チャスカ山脈に住んでいたが、1700年代にキャニオン・デ・シェイを見つけ、スペイン人との戦いから身を守り、しかも農業に適している地として、この地に定住する。
 難民としてナバホに入ったプエブロ族の中にヘメス・プエブロという種族がいる。彼等は、自分達の先祖がこのキャニオン・デ・シェイに住んでいたアナサジであると主張している。もし、それが本当だとすれば、アナサジが何百年をかけて故郷に戻ってきたことになる。しかし、彼等も現在ではアナサジではなく、文化的にも言語的にもナバホ族なのだ。

スペイン人との闘い
ナバホとスペイン人との闘いの中で最も劇的で悲惨な事件がある。今でも「大虐殺」と呼ばれている、その事件は1805年に起こる。1804年の冬、スペイン軍中尉アントニオ・ナロボナの率いる騎馬隊がキャニオン・デ・シェイに向かう。
 ナバホは、キャニオン・デ・シェイの岩を堅固な要塞として使い、決して崩されることはないと思っていた。しかし、スペイン人の武器は、石や弓矢ではない。スペイン人はライフルを持ってきた。ナロボニは、この闘いの後、サンタフェの本部にこう報告している。「150人のナバホを殺し、内90人がナバホ兵士。捕虜33人。」そして、84人分のナバホ兵士の両耳を切って袋に収め、あと6人分の耳が足りないことを謝罪している。明らかにナロボニの意図は、虐殺にあった。
 この虐殺を可能にしたエピソードがある。ナロボニの軍が来る前に、ナバホは岩の中にひそかに隠れており、その隠れ家の所在はナロボニにとって知る由もなかった。しかし、ナバホのある一青年が酋長から結婚を認めてもらえなかったことに腹を立て、スペイン軍に寝返り、ナロボニにナバホの隠れ家の所在を知らせたのである。まさに獅子身中の虫だった。この青年の密告によって、スペイン軍はキャニオンを上り、マミー・ケーブ(Mummy Cave, P.5地図参照)の東下にたどり着き、射程距離に隠れていたナバホをライフルで次々と殺していったのだ。ナバホがこうして虐殺された場所は、現在Massacre Cave(大虐殺の洞窟)と呼ばれている。

アングロとの闘い
ナバホの悲劇はそれだけで終わらない。1848年に米墨戦争(アメリカとメキシコの戦争)が終わり、アメリカ南西部のほとんどは、アメリカの領土となる。ナバホは、今度はスペイン人ではなくアングロと対決しなければならなくなる。ナバホとアメリカとの平和協定が何回か結ばれたが、その度に協定が反故されてしまった。相互理解の欠如、不信、言語の違いに加え、お互いに問題を抱えていた。アメリカ側は、ワシントンと南西部との連絡がスムーズに行かないことが多々あり、ナバホ側は部族を統一し代表するような人間が存在しなかった。ナバホにとっては無理からぬことで、彼等の社会は氏族制度が基本となっており、統一国家ではない。仮にだれかが協定に調印しても、それに同意しない酋長がいればそれまでだからだ。
 こうして不信が不信を招き、業を煮やした米陸軍は、強行にナバホを力で抑え付けようとする。これが前号でも触れた「ロング・ウォーク」だ。1864年1月陸軍大将キット・カーソンがキャニオン・デ・シェーに到着。食べ物の少ない冬場を闘い抜くことができないナバホは、簡単に降伏。しかし、戦争の悲劇はここで終わった訳ではない。むしろ、ここから始まったと言ってもよい。降伏したナバホは、キャニオン・デ・シェイアから強制的にニューメキシコのボスク・レドンドという場所に移動させられる。徒歩での移動は過酷を究め、途中で命を落とすナバホが続出。数百名が途中で死亡した。さらに、ボスク・レドンドに着くや、より厳しい生活環境が待っていた。痩せた土地、不十分な水、その上、白人が持っていた病原菌に抵抗のないナバホが数千人という規模で死亡。その地に4年もの間抑留され、再び協定がナバホとアメリカとの間で結ばれ、彼等はナバホ・ネーションにやっと戻る。同時に国内では南北戦争を起こり、軍の関心は対ナバホから対南軍へと移る。
 このロング・ウォーク以降、ナバホとの軍事的な対立はなくなった。しかし、アメリカ・インディアンと連邦/州政府との相互理解が樹立されたかと言うと、そうではない。不信と誤解はいまだに存在し、長い紆余曲折が続いているのだ。





ロン・リー (Ron Lee)
アリゾナ・インディアン諸事委員会 (Arizona Commission of Indian Affaris) のディレクター。当委員会は、アリゾナ州政府の一機関で、州政府とアメリカ・インディアンの各種族とを橋渡しする役目。1960年にナバホ・ネーションで生まれる。生粋のナバホ。現在テンピ在住。週末はいつも、テンピから生まれ故郷に車で戻り、ナバホの伝統文化と信仰を実践。
 アメリカ・インディアンと連邦政府の長い軋轢の歴史を熟知している。彼の父は、ナバホ・ネーションの部族政府の議員として、ワシントンとの交渉に尽力してきた。その父から受け継いだアメリカ人の政治感覚と、母から受け継いだナバホの伝統が、この仕事を可能にしている。フラッグスタッフの北アリゾナ大学でインディアン学を専攻し、修士号を取得。その後、銀行でローン・オフィサーとして仕事をした経験も。
 州政府は、インディアンに対し、彼等の経済発展を奨励している。居留地の中へ大企業を誘致したり、機能的なカジノ運営を促進し、各種族が経済的に潤えば、教育施設、医療施設を居留地に建設したりして、インディアンにとって利するところが多いと見ている。
 しかし、インディアンにはそれぞれ伝統と固有な文化/宗教があり、一方的な州政府の話が簡単に受け入れられるはずはない。
 そこに彼の仕事の重要性がある。
 しかし、彼は言う。「インディアンからは、私が州政府の側の人間と見られ、州政府や政治家からは、私がインディアンの側の者と見られ、中々スムーズに行きません。」両者の間に欠けているもの。それは「信頼」と指摘する。
 この信頼を確立するには、双方の教育が必要だと強調。発想、ライフスタイルが余りにも異なる人達が、相互に理解でき、尊敬できる社会。これは大変な事業だ。
 ロン・リー氏は、誇り高きナバホとして、この難問に挑戦する。




連邦政府のインディアン政策
米連邦政府のアメリカ先住民に対する政策は、二転三転して今日に至っている。

19世紀末まで、政府は先住民を一定の居留区に追いやり、アングロと別の世界に閉じ込めようとしてきた。これに反抗する先住民は力ずくで抑えられ、流血の惨事が至るところで起こった。

典型的な例は、1830年にアンドリュー・ジャクソン大統領の署名によって効力を発した「インディアン移動法(Indian Removal Act)」。この法律によって、ミシシッピー川の東に住む先住民は強制的にオクラホマに移動させられた。この法律に対し、チェロキー族は勇敢に反抗し、最高裁判所に訴える。最高裁判所では、ジョン・マーシャル法務長官がインディアンを先祖伝来の土地から追い出すのは憲法違反であると、彼等の主張を支持した。しかし、ジャクソン大統領は、この判決を無視し、軍隊にインディアンを追放するよう命じた。余りにも強硬な命令に、当時の米軍大将ウールが辞任。ジャクソンは、早速ウィンフィールド・スコットを新大将に任命して強行。そして3万人ものチェロキー族が裸足のまま徒歩や馬車で1000マイルもの長距離を移動し、その内4分の1が道中で死亡してしまった。この道を「涙の道 (the Trail of Tears)と呼ぶ。

政府は、1887年に「一般土地割り当て法 (the General Allotment Act)」を制定。先住民が追いやられた居留区を個々の先住民が所有する小区画の土地に分割し、先住民をアメリカ流の小農民に変身させようとした。しかし、元々土地を区切って所有するという。






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