1999年 8月号 特集

モニュメント・バレーの不思議


ジョン・フォード監督、ジョン・ウェイン主演の「駅馬車」など多くのハリウッド映画で登場したこの地。モニュメント・バレー。広大な空間の中に不思議な格好をした岩の塔があちこちに点在している。
場所は、アリゾナ北部とユタ南部の州境にまたがり、フェニックスから車で約6時間。
今月はこの神秘な世界に焦点を当ててみた。



カイェンタが最も近い町。そこから163号線を北に24マイル。一度州境を越えてユタ州に入ってから右折。
ビジター・センターで資料などを入手できる。
ビジター・センターは、5月から9月の夏場が午前7時から午後7時まで、冬場(10月〜4月)が午前8時から午後5時まで開いている。モニュメント・バレー部族公園は、クリスマスと元日以外は、毎日オープン。
注:夏場(4月〜10月)は、アリゾナ州と1時間の時差がある。ここは、ナバホ・ネーションと言ってナバホ族の土地。ナバホ・ネーションはアリゾナからニューメキシコ州まで広範囲に広がっている。彼等ナバホ族はそのニューメキシコの時間を標準としているので、ナバホ・ネーションに入るや否や同じアリゾナ州でも時差が生じる。こちらの時間に1時間足すことを忘れないこと。



一大芸術作品
 モニュメント・バレーの岩山には名前があり、名称の最後にButte(ビュート)やメサ(Mesa)と言う言葉が付いている(5ページ地図参照)。Butteとは、切り立った孤峰のこと。中には300mもの高さで直立しているものもある。Mesaとは、スペイン語でテーブルの意。つまり台形の大型岩を指す。
 この一帯の地層はペンシルバニア紀と呼ばれる時期(2億7先万年〜3億年前)のものが浸食されて地上に現われたと言われている。
 標高は5,000フィート(約1,500m)。夏は気温が最高で70〜90?、冬は最高40〜50?。降雨量は少ない。春には様々な色の野花が咲き乱れ、赤土の砂漠に見事な色合いを添えてくれる。

何故赤い?
ペンシルバニア紀の後の二畳紀(2億2千万年〜2億7千万年前)。生成期の古代ロッキー山脈からゆっくりと川が流れ、ユタやアリゾナ州の北部に沈泥が堆積した。その中に大量に含まれていたのが鉄分。当時は酸素が高い濃度で地上に発生しており、鉄分の酸化が急速に進んだ。その結果が赤や茶褐色の土を生んだ。

何故こんな形に
 こうして長い時間をかけて堆積した赤土が固く結合して大きな岩のような山を形成したと考えられている。その岩が数先万年の間、絶え間なく吹き続ける風によって風化が進み、こうした神秘的な格好を作り上げてきた。まさに自然と言う名の芸術家が築いた一大作品だ。そしてこれは、最終的な完成作品ではなく、今も風化と言うブラシが寸暇を惜しまず岩を削り続けている。
古代先住民
モニュメント・バレーのあたりには、西暦1300年以前の古代先住民の遺跡が100ヶ所以上発見されている。アナサジと呼ばれる彼等古代人は、この地でキビなどを育てたり鹿などを狩猟したりして生活をしていたようだ。彼等の生活は西暦1300年を境に突然姿を消している。

キャンプ
キャンプ場は、ビジター・センターの1/4マイル南西にあり、100ヶ所の場所が設置されていれ、それぞれテーブル、バーベキュー用グリル、ゴミ箱が用意されている。冬は利用できない。予約は取らないので、早いもの勝ち。
宿泊施設
モニュメント・バレーに最も近いホテルは、グールディングズ・ホテル&トレーディング・ポスト(Gouldings Hotel & Trading Post)。1923年にグールディング夫妻がここで商店を開いたのが始まり。現在は博物館になっており、モニュメント・バレーで撮影されたハリウッドの映画の写真などが展示されている。ホテルは、その隣。屋内プールとレストラン、ギフトショップが併設されている。予約は早めにしないと宿泊できない。電話:435-727-3231。
その他の宿泊施設は、カイェンタにあるモーテル、あるいはフラッグスタッフを拠点にするのも良い。
ナバホ族のホームランド
 モニュメント・バレーは、ナバホの部族公園。ビジター・センターの経営、公園内のパトロールなどの管理をしている。当公園は1958年に設立され、部族政府の公園・レクリエーション部の管轄。29,816エーカー。ここで彼等は長い間生活を営んできた。いつ彼等がこの地に定住したのかは明確でない。
 ナバホは独特な文化を保ち、農牧を営み平和で大変誇り高い種族だ。この誇り高き人々にいきなり武力で迫り、土地を追い多くの命を奪った白人の侵入の歴史がある。19世紀半ばに行われた「ナバホ・キャンペーン」によって、おびただしい数の先住民が家を壊され、囚われ、殺され、居留地に追いやられる。今でも語り伝えられている歴史の惨事の一つが「ロング・ウォーク」と言われる強制移動。1864年キット・カーソン陸軍大将が行ったナバホ撃退作戦だ。白人に降参をした約8,000人のナバホの人達が約300マイルの長距離を歩いて移動。女、子供、老人、病人も全て容赦なく移動を強いられ、途中で何百人という人が疲労と飢えなどで命を落とす。歩けなくなったナバホが射殺されたりもした。
 モニュメント・バレーには、この「ロング・ウォーク」から逃げてきた難民のナバホも多い。

グールディング夫妻、ナバホ、そしてハリウッド
 ハリー・グールディングとその妻マイク(通称、実名はレオナ)がモニュメント・バレーに入植したのは、1923年。現地のナバホと同じように羊を飼い、やがて商店を設立。ナバホの良き友人となり、この地に根を張る。ナバホからウールの毛布、工芸品などを購入し白人に売る。地元のけんかの仲裁をし、米連邦政府と先住民とのパイプ役を果たすようになる。夫妻のナバホへの愛着と深い理解は、そのままナバホ社会に受け入れられていった。
 1929年に大恐慌。ナバホ・ネーションにも深刻な経済打撃が襲う。そこでハリーが一計を練る。当時西部劇の映画が盛んに作られていた。しかし、映画制作のロケーションには、ハリウッド周辺の丘が使われていた。ハリーは、映画監督のジョン・フォードを説得し、西部劇のロケーションにこの壮大なモニュメント・バレーを選んでもらえば、現地のナバホ社会の経済活性につながり、しかもアリゾナの宣伝効果も上がる、と考えた。何故なら映画作成に多くの先住民が雇われることになり、映画は世界中の人が観るからだ。
 ハリーは早速、モニュメント・バレーの写真の数々を持ってハリウッドヘ。ところが、ジョン・フォード監督。当時の有名な映画監督にそう簡単に会える訳がない。ハリーは、ジョン・フォードの事務所で、持ってきた寝袋をフロアに広げて、フォード監督に会えるまで帰らない、と頑張る。この作戦が成功し、フォード監督は、ハリーが持参したモニュメント・バレーの写真を見る。もちろんその壮観に感動した(ハリーの熱意にも動かされた)大監督は、モニュメント・バレーまで足を運ぶ。サイは投げられた。
 「駅馬車 (Stagecoach - 1939年)」、「アパッチ砦 (Fort Apache - 1948年)」、「黄色いリボン (She Wore a Yellow Ribbon - 1949年)」、「捜索者 (The Searchers - 1955年)」など次々とヒット作品がモニュメント・バレーで撮影される。ジョン・ウェインが名優となるきっかけを作ったのも、そのロケーションとして使われたモニュメント・バレーだった。
その後、多くの西部劇映画にナバホの人達が雇われ、スクリーンで彼等が話すナバホ語が人々の耳に入ってくるようになる。
 ハリーの社会貢献はそれだけで止まらない。彼は、ナバホの健康が心配でならなかった。ナバホ族には、メデスンマンと呼ばれる指導者がいる。部族の中で病人が出れば、このメデスンマンが治癒にあたる。その他様々な儀式を行う重要な立場の人だ。しかしながら、近代医学の導入も必要であると確信し、彼のトレーデイング・ポストの近くに病院を設立する。
 彼の商店(トレーディング・ポスト)は、ただ単に商品を売買する所ではなかった。そこは、ナバホの人達が気軽に集まり、問題を抱えた者が解決を模索して来る場所でもあった。
 ハリー・グールディングは、1981年にこの世を去る。しかし、モニュメント・バレーの人々は、グールディング夫妻の偉業をいつまでも忘れることがないであろう。


黄色いリボン
(1949年)




オアシス
発行人 中村 潔 George K. Nakamura
発行所 ACE Japan Consulting Services, Inc
P.O.Box 31781
Phenix , AZ 85046
Tel (602)569-2488
http://www.acejapan.net
georgen@acejapan.net
(c)1999 & 2000 ACE Japan Consulting Services, Inc.
本情報の無断転載を禁じます