禁じられた伝統文化が新しい息吹を見せ始める。新しい世代の若いインディアン達が台頭してきた。彼等はインディアン・スクールで学び、英語をマスター。白人文化に生活しながら、伝統文化を蘇らせてきた。インディアン局は同和政策の失敗を恐れたが、時代が変革し始めた。
白人社会の中にインディアンの芸術や文化に対する興味が広がり始めていた。また、インディアンは、観光業の対象ともなり、彼等の伝統衣装やダンスがアメリカのフロンティアへのロマンを誘うようになってきた。アメリカの経済にも無視をできないインパクトを与えるようになってきたのだ。
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インディアン政策のアイロニー
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インディアンの伝統を抹殺し、若い世代とインディアン居留区との関係を断絶させるために連邦政府が作ったのがインディアン・スクール。ところが、インディアンの子供達は、インディアンの伝統を自分のルーツとしてしっかり把握し、しかもインディアン局に対する対応も見事にやってのけてしまった。
ダンスの中には、アメリカの愛国精神を前面に出した。白人が受け入れ易いように、アメリカの祝日を使ってインディアンの儀式を行い始めた。独立記念日、メモリアルデー、レーバーデーなどには、彼等は星条旗に体を包み、国家への忠誠を示した。そして、堂々と伝統の音楽やダンスを披露し始めたのだ。
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連邦政府の政策転換
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1920年代末になると、連邦政府はいよいよインディアン政策の誤りを認めざるを得なくなり、大きな方向転換を迫られた。当時政府のインディアン政策を厳しく非難していたジョーン・コリアがインディアン局の局長に任命になった(1933年)。彼はインディアン文化に魅了された一人で、種族の自治権を主張。インディアン
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・スクールで非インディアンの音楽教育を放棄し、「真」のイこの期間はインディアン・ニュー・ディールと呼ばれる。全米のインディアン・スクールでは、インディアン・クラブができ、伝統芸術、音楽、ダンス、衣装を学ぶことが奨励される。また、異種族間の生徒の交流が促進され、それぞれの居留区に帰った時に他の種族から学んだものを生かすよう激励。学校で磨かれた伝統技能を学校外で披露する機会も作られた。
第二次世界大戦のころになると、インディアン・クラブは、よりインディアン色を強めた。1960年代には、インディアンによるインディアンのための文化的、政治的組織へと発展していく。
初期のインディアン・スクールにアメリカのアメリカ的なスポーツが持ち込まれた。インディアン局の目論みは、スポーツを通して子供達の記憶からインディアン文化と歴史を消し去ることだった。劣っていることを強調したかった。そこで、フットボール、野球などが学校で奨励された。ところが、皮肉な結果が現れたのだ。
スポーツはインディアンの子供達に彼等がインディアンである誇りを植え付け、スポーツで白人より強くなることが喜びとなった。
たとえば、1890年代のカーライル校のフットボールチームは、全米でも屈指の優良チームとなった。それ以後、オリンピックにもホピ族のルイス・テワニマが長距離レースで銀メダルを勝ち取り、カーライル校の野球チームで活躍したチャールズ・アルバート・ベンドは、野球の殿堂入りを果たした。
インディアン・スクールは、アメリカだけでなく、カナダにも同様な目的で作られていた。カナダでは、過去に学校内で行われた肉体的、精神的虐待が明るみに出て、国民の関心事となった。その結果、ブリティッシュ・コロンビアの法廷に提出され、ついに1990年、カナダ政府は公に謝罪をしている。
アメリカの場合は、この問題が個人や家族、または共同体の中で止まっており、社会的な注目を浴びるまでに至っていない。
(次号につづく。)
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