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1890年に連邦政府は、フェニックスの農地160エーカーを買い上げた。金額は9,000ドル。この土地は翌年フェニックス・インディアン・スクールとしてオープン。その後、1990年の閉校まで1世紀の間、アリゾナや南西部のアメリカ・インディアンの子供達を教育する場として存在してきた。
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なぜインディアン・スクールか |
19世紀後半に連邦政府が作ったインディアン・スクールは、フェニックスだけでなく、全米各地に産声を揚げた。インディアンのための学校をなぜ連邦政府が作ったのだろうか。それは、連邦政府のアメリカ・インディアン政策の一環として生み出された。当時の連邦政府は、インディアンとの絶えざる戦いに多大な費用を費やしていた。まず、インディアンを居留区に追いやり、反発するインディアンを武力で押さえてきた。
しかし、この戦いの損失も大きく、頭を悩ましていたところ、「インディアンを殺すより、その子供を教育して 『文明化』した方が安上がりだ。」と
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政府に進言する者が出てきた。そこで、この「文明化」に政府が乗り出す。 この「文明化」のための学校作りを提唱し、ロビー活動をしたのが、リチャード・ヘンリー・プラット。彼は軍隊の将校だったが、バージニア州のハンプトンにあるハンプトン師範農業学校にインディアンを就学させて満足のいく結果を得たという経験を持つ。このハンプトン師範農業学校は、もともと黒人を教育するための学校だった(現在のハンプトン大学)。
プラットは、ペンシルバニア州のカーライルに学校を作り、連邦政府からの支援を募った。カーライルには、インディアンの子供達が親元とインディアン共同体から離され、完全に白人の世界の中で教育を受けることになった。
こうして、カーライルが初のインディアン・スクールとなり、その後数年間で同様の学校が次々と建設され始める。
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各地のインディアン・スクール
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| 1884年、政府はチロッコ・インディン農業学校をインディアン・テリトリー(現在のオクラホマ州)に、ハスケル専門学校をカンザス州のローレンスに建設。カーライル、チロッコ、カスケルはインディアンの様々な種族を各地から集めて就学させた。一 |
方、その他の学校は地元のインディアン部族に限って就学。1880年、カリフォリフォルニア州リバーサイドにはシャーマン専門学校が建ち、カリフォルニア州のインディアンやアリゾナ州のホピ族が送られた。同年、オレゴン州サレム、翌年アリゾナ州フェニックスにインディアン・スクールが誕生。その他、1890年には、ニューメキシコ州のサンタフェに学校が建設され、米南西部の部族の子供達を就学した
インディアン・スクールに到着するや否や、子供達は厳しい軍隊式の訓練を受ける。まず、今まで着ていた服を脱ぎ捨て、政府指定の服と軍服をあてがわれる。髪は散髪して短くなり、シラミ避けのために灯油を使ってしっかり櫛でとかされた。
学校内では彼等が使ってきた種族の言葉を使うことは、厳しく禁じられた。言葉のみならず、あらゆるインディアン文化関係の行動は体罰の対象となった。インディアンの名前が付いた子供は、「適切に文明化された」英語の名前に変えなければならなかった。男女は厳しく分離され、仮に兄弟姉妹が同じ学校に来ていても、兄と妹、姉と弟は同席が許されなかった。
マッキンリー大統領は、1898年に連邦政府のインディアン・スクール長官にエステル・リールという女性を任命した。彼女が1900年に新聞のインタビューに応えて次のように述べている。
「インディアンの子供は、同年の白人の子供に比べて、肉体的に劣っている。前腕と手は柔軟性に欠け、体格は白人の子供達が通常行うようなバラエティーに富んだ動きができるほどに至っていない。表現の自由がなかったので、顔の表情は硬く、頭脳の機構が欠けていて、頭が極めて固い。」
リールは、アメリカ・インディアンが肉体労働や農業、白人の家庭の手伝いなどの仕事しかできない人種だと信じた。また、インディアンは愚鈍で、知的な活動に向いていないと結論づけた。1901年に出版された雑誌には、「インディアンの男子は、靴磨きなどの仕事に、女子は、家事の雑用ができるように訓練すべきだ」と述べている。 教育方針もまた、行進や体操法など筋肉を作る練習が重んじられ、学術的な向上に関心を向けている様子はなかった。
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あるナバホ族の少女の詩に、こうある。
政府の学校は裁縫を教えた。
私は、電動のミシンを学んだ。
故郷の村に帰れば、裁縫ができる。
でも、故郷にはミシンもなければ、
電気もない。
私が学んだミシンは、
どこにも持っていけないけれど、
あなたが学んだこの歌は、
あなたの心に宿り住み、
ここよ、あそこよと運んでいける。
インディアン・スクールに送られた多くの子供達の間には、強烈なホームシックが襲い、学校の寄宿舎から逃げる生徒が跡を断たなかった。学校の中には倦怠感が蔓延し、生徒の学力も平均をはるかに下回っていた。
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インディアン・スクールの職業訓練の中でユニークなプログラムがあった。それが、課外プログラム。これは、前述のカーライルの創立者、プラットが発案して行われたものだ。課外とは、10代の生徒を白人の家庭に派遣し、労働をさせるプログラムだ。白人家庭には、都会に住む中流家庭が選ばれ、派遣された生徒は、畑仕事や家事などをすることになった。このプログラムの目論みは、インディアンの子供達をアメリカ経済の低レベルに定着させ、そのレベルの労働力を確保しようとしたものだった。
学校側は、生徒達に白人の中流階級の中に溶け込み、白人の価値観を身に付けるよう奨励した。家族から離れているインディアンの子供達は、こうした白人家族を自分の家族のように慕って、労働するよに激励したのだ。そして、夏休みなどの長期休暇に子供達がインディアンの共同体に戻ってしまって、「白人化」の努力を忘れないためにも、休暇中の課外プログラムは効果的だった。一方、多くの子供達にとっても、小遣い稼ぎになるこうした課外労働は、魅力だったようだ。かくして、インディアンの「文明化」は政府の思惑通り、成功したかのように見えた。
| 学校内の風紀 |
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インディアン伝統の抹殺を目的にした教育の影響は、当然、校内の風紀にも現れた。インディアンの言語を使うのが見つかれば、子供は強制的に口の中に強い消毒液を入れて洗うよう命じられた。その他、校則に反すれば、衛兵詰め所にパンと水だけ与えられて、監禁された。教師からの暴行は日常的で、性的虐待、恐喝など非人間的な行動が頻繁に見られた。また、生徒の間でも、部族間の衝突、暴力、ギャング活動、寄宿舎からの逃亡など荒れた精神が荒れた行動として現れた。
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19世紀末から20世紀初期のインディアン・スクールには、肺結核が蔓延した。何百人という子供達が肺結核に病み苦しんだ。しかし、政府関係者にはその対策がなく、インディアンは肉体的に劣っているから病気になると考えられた。先述のエステル・リールは、「学校(インディアン・スクール)に入学してくる子供の多くは、先天的に病気になり易い体質で、とりわけ肺結核になり易い。」とまで言ってのけた。
後に、科学者や医者達がわかった事実は、肺結核は感染し、団体生活者には罹り易く、人種的な問題ではないということだった。
(次号につづく。)
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