|
2002年 4月号 特集
 |
ツームストーンと言えば、OK牧場の決闘。
かつての無法の西部は今、伝説として語り伝われている。
今月はこのツームストーンを歩いてみよう。 |
観光客で毎日賑わうツームストーン。 |
ツームストーンは、1853年12月30日のガズデン買収協定によってメキシコからアメリカ領となった。この地に入植した最初のパイオニアは、エド・シーフェリン。彼は、この一帯に銀の鉱脈があると見た。山の地表の色から得た彼の第六感だったのだろうか。時は1877年。ツームストーン周辺を掘ってみようと決意。周りの連中は、「この山でお前が見つけるのは、お前の墓石ぐらいなものさ」と、彼の試みを笑った。当時、アパッチ族の襲撃は熾烈を極めていたからだ。この「墓石」つまり「ツームストーン」が結局、この町の名前となった。1878年2月、彼はただ独りで活動開始。ついに弟のアルと有名な試金者、リチャード・ガードを説得して銀を求めた。そして、2つの鉱脈が見つかったのだ。1879年4月には、ツームストーン・ミル&マイニング社が設立。同年12月には、ツームストーンが正式に村としての自治体となった。
1880年には、急速な人口増加が始まり、大型小売店が12軒、ホテルが4軒、レストランが9店などが街角に並んだ。1881年のツームストーンの人口は6,000から7,000人だったと言われる。1881年1月31日、コチーズ郡は、ツームストーンを市と認定した。
コチーズ郡の保安官となったのが、ジョニー・ベハン。彼は外交が上手く政治の駆け引きに長けていた。しかしながら、彼には保安官としての本来の仕事である犯罪の取締などよりも、自分のふところを豊かにすることの方が優先だった。
ニューマン・クラントンという名のならず者とその仲間がいた。彼等は地元で「カウボーイ」と呼ばれた。カウボーイの中には、トムとフランク・マクローリー兄弟、クラントンの息子達のフィン、アイク、ビリー・クラントン(通称ジョニー・リンゴ)、悪党中の悪党;カーリー・ビル・ブロシアスなどがいた。彼等は牧場から牛を盗み、ツームストーンの市場やインディアン達に売り飛ばしていた。そしてその売り上げ金は酒場やカジノで湯水のように使い果たされた。彼等を囲む連中にとっては、彼等は英雄のように扱われ、まさに無法の西部そのものだった。
当時の保安官は、売り上げ税を集める権利もあり、その一部を自己の収入としても良かった。そこで、保安官ベハンは、ならず者の取り締まりはそっちのけで、鉱山の収益から出る税金を集めるのに奔走していた。
無法地帯の西部でも、ツームストーンの鉱山経営者などのビジネスマン達が中心となり、法と秩序を確立しようと動き出す。ツームストーンの新聞「ツームストーン・エピタフ」の編集者であったジョーン・クラムが不動産スキャンダルをすっぱ抜き、正義を正した後、市長に選出される。クラムやビジネスマン達の改革組を支えた者の中にワイアット・アープがいた。彼は、カンザスで警察官をしており、ツームストーンに来た頃には、「恐れ無き法執行官」という評判が広がった。
ワイアット・アープの兄、ヴァージル・アープもツームストーンに移ってきた。ワイアットは連邦副執行官に任命されており、ヴァージルも1881年にツームストーン市の警察署長となる。アープ兄弟の内もう一人のモーガン、そしてアープ兄弟の親友、ドック・ホリデーなども加わる。ドック・ホリデーは、肺結核に病みながら、元歯医者からギャンブラーとなる。
サンフランシスコの裕福な家で育った若くて美しい女性が劇団の一員としてツームストーンにやってくる。その名は、ジョセフィン・マーカス。彼女は保安官のジョニー・ベハンと恋仲に落ちる。ところが、まもなく大げんか。その直後、彼女が会ったのがワイアット・アープ。もちろんアープは、ベハンのライバルだ。ワイアット・アープが彼女を手に入れると、ベハンのアープに対する憎悪は風船のように膨れ上がる。
 |
両者の緊張がクライマックスとなった。1881年10月26日。彼の有名なOK牧場の決闘だ。銃声は町中に鳴り響き、風が煙を吹き払うと、ビリー・クラントン、トムとフランク・マクローリー兄弟の死体が横たわっていた。ヴァージルとモーガン・アープ兄弟、そしてドック・ホリデーは銃弾を受けて傷付いた。ワイアット・アープだけが無傷だった。
この決闘はツームストーン市民の声を二分した。はたして、正当な決闘だったのか。または冷血な殺人だったのか。公聴会が開かれた。そして、判決はアープの正統性に軍配が揚がった。
ところが銃声はそれで止まることがなかった。同年12月、ヴァージル・アープが待ち伏せ攻撃に遭い、一生不具者となってしまう。翌年3月、モーガン・アープが待ち伏せを受け、暗殺される。 |
犯人が見つからないまま、ワイアットとドックは、自分達の手で仕返しを決断。まもなく、カーリー・ビル、保安官ベハンの補佐フランク・スチルウェル、そしてもう一人の駅馬車強盗をした人間の3人が殺される。
どちらが悪人でどちらが善人なのか。今でも論議の的だが、アープ側は相手を正面から撃ち、相手側はアープ側を常に背後から襲ったという点が一応議論の決着をつけているようだ。
ワイアットはその後も兄弟の死を悼み、ツームストーンを去った後、数カ月後ジョニー・リンゴをチリカウア山脈で銃殺。そして、1929年の逝去するまでジョセフィンと暮らしたという。
ワイアット・アープ達が牛泥棒の一群を抹殺した後も、コチーズ郡には平和が訪れた訳ではなかった。1887年にタフなテキサス出身の保安官が任命される。その名はジョーン・スローター。スローターは、牛泥棒に布告を発令。「ここから姿をくらますか、殺されるか」と。スローターは自分で牧場を持っていたこともあって、牛泥棒への憎悪は一際高まっていた。彼にとって裁判の法制度などどうでも良かった。
前述の有名な牛泥棒、アイク・クラントンは、その活動範囲を遠くに移し、アリゾナの東端、クリフトンにいたところを射殺されてしまった。時は1887年。
なお、ドック・ホリデーは、肺結核が悪化し、同年コロラドで死亡。
血で血を洗う銃殺劇は、その後も20世紀初頭まで続いた。
ツームストーンを訪れると、この決闘があった場所が一つの観光名所となっていることがわかる。英語ではOK コラール (Corral)。ところが、コラールは、豚や鶏などの家畜を飼うために冊で囲った場所を意味する。実際、OKコラールは、「牧場」の印象とははなはだかけ離れた小さな庭のような所だ。コラールを牧場と和訳したのは間違いではなかったのか。それとも印象を強くするための誇張であえて牧場としたのだろうか。読者の皆さんで御存じの方はご連絡下さい。
|

連日訪れる観光客は、西部劇のライブを楽しんでいる。 |
ツームストーンは、20世紀に入って繁栄の道に陰りを落としはじめる。1910年に銀の価格が暴落。1930年には一議席在った郡議会の議席がビスビーに移動し議席をなくしてしまう。その後、1929年の大恐慌、2度にわたる大火事、大洪水などが襲い、人口激減にともないゴーストタウンへの道を進む。
しかし、この町はツームストーンの伝説を観光化することに成功。古い建物を保存し、観光客の誘致が町の活性化を導いた。今では、年間20万人の観光客が訪れ、かつての無法の西部を満喫している。まさにタフ過ぎて死ぬことがない町となった。
|
|
オアシス
|
| 発行人 |
中村 潔 George K. Nakamura |
| 発行所 |
ACE Japan Consulting Services, Inc
P.O.Box 31781
Phenix , AZ 85046
Tel (602)569-2488
Fax(602)569-2489
http://www.acejapan.net
acej@cox.net |
(c)1999 〜 2002 ACE Japan
Consulting Services, Inc.
本情報の無断転載を禁じます |
|
 |