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2001年 3月号 特集
アリゾナの歴史は極めて浅いが、初期のアリゾナ州に多大な貢献をした政治家が何人かいる。
今月はベリー・ゴールドウォーターとカール・ヘイデンを紹介。両者ともアリゾナ生まれ。20世紀中半に最も活躍し、州のみならず、全米にも大きなインパクトを与えた。
右写真:選挙キャンペーン中のベリー・ゴールドウォーター (1975年)
写真提供:Arizona Historical Society Library, Central Arizona
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高速道路ループ202号を走るとテンピとフェニックスの境に見えてくる奇妙な建物。読者の方からも質問がありました。これは一体何なのか。まるでバースデー・ケーキの周囲に何本ものローソクが立っているように見える。人が住んでいるのか。それとも博物館なのか。
その名をトブレア・キャスル (Tovrea Castle)。と言っても戦争の城ではない。話は1928年にさかのぼる。イタリア移民でサンフランシスコにいた事業家がフェニックスに目をつける。彼の名は、アレッシオ・カラロ。カラロは、ここに277エーカーの土地を購入し、高級リゾートホテルとその周辺に高級住宅街を開発しようとした。そして誕生したのがこの3階建てのビル。
もともとここは火こう岩が盛り上がった丘だったが、その頂点をダイナマイトで削り、コンクリートの基盤を作り、地下室と3階のホテルを建設した。
時は大恐慌の嵐が全米を揺さぶっていた1930年。カラロのホテル事業は数ヵ月で終止符を。
そして、カロラからこの土地と建物を買い取ったのが、E.A.トブレア。彼と妻のデラ・トブレアは、ホテルを自宅に変え、そこに住み着いた。翌年、夫のE.A.は亡くなり、デラは後ほどウィリアム・スチュアートと再婚。彼等がこの元ホテルに住み、1960年にウィリアムが死去。そして、デラはここに1969年に亡くなるまで住んでいた。
デラの死後、空っぽになった建物は傷む一方で、1993年にフェニックス市が買い取った。市では、建物、庭の整備をした後、ここを様々なイベントなどに使用し、歴史はそのまま保存されていくことになる。
市の企画が完成するまであと2年ほどかかる予定。それまで一般公開はない。 |


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共和党保守派のゴールドウォーターと民主党リベラルのケネディーとは、その主義主張が全く異なっていたが、不思議なことに、この二人は互いに深く尊敬合っていた。両者とも第二次世界大戦の戦場を経験した後、ワシントン入りし、互いにからかい合ったりして、意気投合することが多かった。1963年に大統領候補者として両者の討論が始まる。討論は白熱を極めたが、両者の信頼関係は厳然としていたようだ。翌年のケネディー暗殺は、ケネディーだけでなく、ゴールドウォーターにも不幸なことであった。
ゴールドウォーターの自叙伝によると、こんなエピソードがある。1961年4月に米軍がキューバのピッグス湾に上陸し、キューバを侵略。ところが、カストロの反撃はCIAの予想以上にしたたかで、この作戦は窮地に陥る。ケネディーはCIAの強硬な計画に乗せられたと失敗をさとる。この時、ケネディーは急遽ゴールドウォーターを呼び彼の意見を求めた。ケネディーは尋ねる。「君ならこのようは状況をどうするかね。」ゴールドウォーターは、「私なら、ありとあらゆる手段を使って侵略作戦を断行します。我々の海軍がすでに当地にあるのだから、後はカストロの空軍さえ壊滅させれば、米軍はキューバに上陸できるはずです。」と答えた。ケネディーはゴールドウォーターに一言。「ところで、君はこのとんでもない役職(大統領職の意)が欲しくないか?」と。
ゴールドウォーターは、当作戦が継続し、成功するだろうという印象を持ってホワイトハウスを出る。しかし、その後、全軍撤退の命令が下って進行作戦は失敗し、後のキューバ危機に発展する。
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ゴールドウォーターは、ケネディーともユーモアを交し合ったが、カーター政権の時に、アリゾナの水確保の事業費を削減しようとしたカーター大統領に、面と向かってこう言って反対した。「大統領、西部の人々が争うものに3つあります。それは、水、金、そして女の順です。」
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アリゾナで生まれ、アリゾナで育ったゴールドウォーターにとって、アリゾナの自然美は、人生の大きな比重を占めていた。そして、アリゾナ産の彼にとって、同じくアリゾナに深く根を張って生きてきたアメリカ・インディアンは、非常に惹き付けられる存在だった。
彼は若いときからアリゾナのいたる所を探検しては、遠い昔からこの自然に畏敬を感じてきた先住民に親近感を持っていたようだ。 冒険と言えば、1940年には、ワイオミングのグリーンリバーからコロラド川を下って、グランドキャニオンを抜け、レーク・ミードまでの川下りもやってのけた。
彼は、ホピ族の土地を旅しながら、まるで本当の故郷に帰ってきたような感じを得たと言っている。
ホピ族の伝統的なカチナ人形は、彼の大きな収集となり、集めた437ものカチナ人形は、1968年にハード博物館に贈与された。 |
カール・ヘイデンの政治家として特筆すべきことは、その長さだ。なにしろ、彼の94年の人生で67年もの長期にわたって政界で活躍したのだ。
ヘイデンは、1877年、ヘイデンズ・フェリーで生まれる。彼の父チャールズ・ヘイデンは、コネティカットで生まれ、その後、旅を続けて、アリゾナに。1864年にはツーソンで最初の検認裁判官に任命される。1873年にチャールズは、ツーソンから農園を作る目的でソルトリバー・バリーに移住。その当時ソルトリバーは満々と水をたたえており、このソルトリバーから灌漑用水路を作って水を引き、農業を始めた。彼の農園は、ソルトリバーの南に穀物、製粉場、果樹園を広げ、そしてヘイデンズ・フェリーと呼んでソルトリバーを渡る船の運行業を行った。チャールズは砂漠の真ん中に大きな経済基盤を作り上げ、1874年に51才で結婚。そして、1877年10月2日にカールが長男として誕生する。この地域で始めて生まれた白人の子供と言うことで、新聞でも騒がれた。カールは、子供の時から父の事業を助けて働くようになる。
1878年にヘイデンズ・フェリーはテンピと名称を変更。
ソルトリバーとヘイデン
カール・ヘイデンにとってソルトリバーは極めて大きな影響を与えた存在だった。父親の事業は、早ばつと洪水との果てしなき闘いだった。気紛れなソルトリバーは、時には枯れた川となり用水路が枯渇し、時には氾濫して農地を一瞬の内に飲み込んでしまう。とりわけ1890年から1903年までの10年以上は川の氾濫が続き、ダムの建設がどうしても必要となる。
カールは父親の苦労を肌身で感じながら育つ。当然、彼の興味は灌漑と開墾に焦点が集まり、関係の本を読むようになる。
1896年にヘイデンは、スタンフォード大学へ。当時、スタンフォードは5年前に創設されたばかりの新しい大学だった。まもなく、父のチャールズから、テンピに帰って父の事業を引き継ぐよう再三の依頼がある。しかし、若いヘイデンは、すでに自分の進むべき道を決め、ビジネスより政治を目指した。そして彼の目標は「良い治水の法律を作ること」にあった。
ところが、チャールズが1990年に病死。カール・ヘイデンは、卒業をすることなく、テンピに帰り、父の事業を引き継ぐ。そこには、製粉場、商店、そして農園があった。彼は、まず商店を売り、製粉場と農園を雇った会計士と銀行マンに任せ、テンピ市の市会議員となる。この日からヘイデンの政治家としての人生が始まる。当時23才。
ヘイデンの情熱と業績は周囲の認めるところとなり、1906年にはマリコパ郡の保安官に選出される。
1911年12月の選挙でヘイデンは、民主党選出の下院議員に当選。翌年2月アリゾナは正式に米国48番目の州となり、アリゾナ州初の議員としてワシントン入りする。1926年には上院議員となり、1969年に退職するまで、27代大統領のタフトから36代大統領ジョンソンまで実に57年間、連邦政府の政界に身を置いたことになる。
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テンピ・タウン・レーク
ダムの建設で一時は水がなくなったソルトリバー。今は人工湖として蘇った。 |
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| ヘイデンの製粉場。英語でミル。テンピのミル・アベニューの名前は、この製粉場が源。
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治水政策に生涯をかけたヘイデン。アリゾナを始めとする西部各州の水源の確保が課題だった。これには、連邦政府の資金援助が必要だ。その法案に東部、中西部、南部の上下議員が反対する。また、コロラド川の治水には、ワイオミング、コロラド、ユタ、ネバダ、ニューメキシコ、アリゾナ、カリフォルニア各州とメキシコの利権が絡み、なかなかまとまらない。
こうして、途方もないエネルギーと時間を費やして生まれたのがCAP (Central Arizona Project)だ。CAPは、コロラド川の水を7州とメキシコで妥当に配分し、ダムの建設で治水と電力発電を行い、電力の配分も行おうとする企画。これには、ダム建設に伴う環境破壊も大きな障壁となり、交渉に次ぐ交渉で、1968年9月30日に正式に法律となる。
同年5月6日、政府歳出予算委員会が行われた。室内は上院議員、マスコミ関係者、アリゾナの代表者で溢れていた。ジョンソン大統領が短いスピーチを行った後、ヘイデンの親友でもあるリチャード・ラッセル上院議員が、ヘイデンを紹介。ヘイデンは、ゆっくりと壇上に近づき、スピーチを。
「56年間の議員生活で私が学んだことは、その時代の出来事にはその時代の人間が必要だということです。実際、時代が専門家を作るのです。一軒の家が建つ時には、基礎を作る時があり、壁を、そして屋根をなどと作っていく時があります。アリゾナの基礎は、高速道路、十分な電力、そして豊富な水であり、こうした基礎はすでに完成しました。さあ、新しい建物を建設する時が来ました。そこで、本年の任期完了をもって、私は公職を離れることに決めました。」
ここで一斉にカメラのフラッシュが彼の顔を照らす。ヘイデンの顔は涙でぐしょぐしょになっていた。室内には同じように涙ぐむ顔が並んだ。
こうして、ヘイデンは長い議員生活と長い治水への道に終止符を打ったのだ。
ヘイデンは、その後テンピで活発な老後を送った。晩年は彼の父、チャールズ・トランブル・ヘイデンの一代記を執筆し、1972年に完成。その直後、同年1月25日に安らかに逝去。
告別式には、ベリー・ゴールドウォーターが弔辞を述べた。
彼は、ゴールドウォーターと対照的に「静かな上院議員」と呼ばれた。彼は辛辣に他を非難すること無く、たんたんと仕事をした。また、同僚は彼を「ワーク・ホース(働く馬)」とも呼んだ。今のアリゾナの大発展はヘイデンの多大な功績に負うのだ。
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