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ビート(サトウダイコン)の生産がフェニックス一帯に適していることは当初から知られていた。グレンデールでもこのビートを栽培して砂糖を生産しようと、R.P.
デイビーが工場建設を発表した。1903年のことだ。そして、グレンデールの農場主達にビートの生産を奨励。グレンデールの経済に大きなインパクトが加えられることになる。1906年に5階建ての工場が完成した。これには、多くの投資家が将来性を見込んで、多額の金をつぎ込んだ。
工場には何百人もの労働者が雇われ、ここから全米に砂糖が出荷され始めた。以前にグレンデールに入植したが、洪水や干ばつでその地を離れた人たちの中にはグレンデールに帰ってくる者も出てきた。
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このビルは当時フェニックス一帯で最も高いビルの一つだった。ビルからは周辺が360度一望でき、フェニックスのキャメルバック・マウンテンからもこのビルを見ることができるほどだった。その後、ビート生産に陰りが生じ、砂糖工場は閉鎖。しかし、第一次世界大戦で砂糖の需要が高まると、再び砂糖生産が開始された。戦後、工場はまた閉鎖へ。1916年に機械は売却され空ビルとなった。しかし、1934年にビールの流通会社が営業に使い始め、その後オーナーが転々と変わる。1986年以降またも空ビルとなってしまい今日に至る。100年近い歳月がすぎたが、このビルは歴史の証言者として、グレンデールの市民には忘れることができない建物となっている。(右写真)
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グレンデールの農業に欠かせないのは水だ。干ばつと洪水の繰り返しはアリゾナでは避けられない気象環境だが、農場主には頭痛の種だった。1911年、フェニックス/グレンデールの農場主に朗報が。それがルーズベルト・ダムの完成だった。これは、ソルト・リバーの上流をダムでせき止め、農地への水の確保をする目的で建設された。水の確保は農業の発展に、農業の発展は人口増加に、人口増加は町の発展に。1910年にグレンデールは正式に町制を決定。人口は1,000人余。1911年にはウィリアム・マーフィーの努力で、フェニックスとグレンデールを結ぶ市街電車が走り始めた。砂糖、乳製品、小麦粉の生産拠点がグレンデールにでき、ブームがブームを生んだ。
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アリゾナは、皮肉にも戦争で発展してきた州だ。第一次世界大戦は、グレンデールの農業に多大な利益をもたらした。戦争が始まるや否や、食料、繊維製品の価格が急騰する。とりわけ、綿花の需要は、ソルト・リバー一帯を一挙に綿畑に変えていった。綿は、衣類はもちろん、タイヤにも使われる。良質の綿花は当時エジプトやスーダンで生産されていた。ところが、戦争が始まると、英領であったエジプトやスーダンからの綿花の輸出をイギリス政府が禁止してしまったのだ。イギリスは、それを国内の需要にまかなうために使った。困窮したのはアメリカ政府だ。戦車やトラックに使うタイヤを生産しなければならない。そこでタイヤ会社が目をつけたのはアリゾナだった。
綿花のみならず、レタス、カンタループ、スイカなどの農作物が次々とグレンデールの農地から東部の市場に向けて出荷されていった。
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1929年に起きたウォール街の株の大暴落。企業が次々と倒産して、町には無数の職を失った人たちが溢れ出た。グレンデールは、この大恐慌の影響が比較的少なくすんだ。工業都市に比べ、農業中心のグレンデールには職があったのだ。東部から職を求めてカリフォルニアに移住する人たちがグレンデールに立ち寄り、テントに住んで農業に従事した。ある者は綿花を摘み、ある者はメロンの荷造りに汗を流した。こうして、大恐慌の時期にグレンデールの人口は伸び続けたのだ。ちなみに、1930年の人口は3,665。10年後の1940年は、4,855。
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この頃、日本からの移住者やその家族、日系人が苦闘を強いられていた。彼等はグレンデールで農業に従事し、大変勤勉であった。皮肉にもその結果、白人農家からねたまれ、さんざんな嫌がらせを受けたのだ。白人農家は、アリゾナ州議会に強く迫って法律を制定させ、日本人の土地所有や土地賃貸を禁止させた(1921年、外人土地法)。1934年ころには、反日テロのグループがダイナマイトを日本人の家や農地にしかけて、爆破させたりする事件が相次いだ。暴行を直接的にも間接的にも受け続けながらも懸命に生きてきた彼等は、1941年のパールハーバーで追い打ちをかけるように、筆舌に尽くしがたい無惨な人生を送らなければならなくなってしまう。
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1939年にドイツ軍がポーランドを侵略。世界は再び大戦に突入した。アメリカは参戦への準備を始める。そこで注目を浴びるのがアリゾナだった。アリゾナは、米軍航空隊のパイロットを訓練するのに最適な地とされた。澄んだ空、晴天、広大な空間、廉価な土地など条件はそろっていた。そのパイロット訓練所の一つが59th
AvenueとGreenway Road に設置された。通称サンダーバード。ここは、現在の米国経営大学院となっている。
アメリカは、さらに大規模なパイロット訓練所を必要とし、グレンデールの西に現在のルーク空軍基地を建設した(1941年)。この二ヶ所のパイロット訓練所はグレンデールの環境を急変させた。これまでの静かな農業地帯であったグレンデールには次々のパイロットの卵の若者達が移ってきたのだ。
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ルーク空軍基地
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パールハーバー以来、敵国のスパイとみなされた日本人は、強制的に収容所に送られることになる。アリゾナでは、グランド・アベニュー(ハイウェイ60)を境にして、それより南に住んでいる日本人は収容所行き、北に住んでいる日本人は対象外となり収容所行きを逃れた。グランド・アベニューを境にした理由は、ルーク空軍基地の位置にあったようだ。基地がグランド・アベニューより南にあるために基地に近い日本人を排除することが一つの大きな要因となった。収容所に入った日本人はもちろんこれまでの住居、農場などをすべて売り払ったり、ただ同然で他人に受け渡す以外になかった。結局全てを失ったのだ。一方、グランド・アベニューより北に住む日本人は、土地を手放すことなく、これまで通りの生活を維持することができたが、グランド・アベニューを越えて南に行くことは許されなかった。
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